蒲生氏郷という男

うも僕です。

皆さんは蒲生氏郷という武将を知っているだろうか。
僕は多趣味で雑学を蓄えるのが好きなのだが、じゃあお前は一体何オタクなのよ?と問われると、歴史オタクと答えるだろう。
まぁ真のオタクや専門家たちに比べたら好きの域を超えないんだけどさ。

数多にいる戦国武将の中でも蒲生氏郷は特に好きだ。
彼に関する逸話、功績、才能も魅力的だが、何よりの理由は単純に名前が好きなのだ。

 

蒲生氏郷、実はマイナー

戦国の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の名は、歴史に興味がない人でも知っているだろう。
それ以外にも伊達政宗、真田幸村、明智光秀、毛利元就辺りは知っている人もいるかも知れない。
多くの功績と逸話があるのにも関わらず、蒲生氏郷は割とマイナーな武将だ。
それは40歳という若さで他界したことが理由として挙げられる。
また息子がちょっと頭の弱い子で、蒲生家が改易されてしまい、藩として江戸時代に残らなかったことも理由だろう。

信長のお気に入り

幼名・鶴千代、初名・賦秀、後に氏郷と名乗る彼は、近江国(現在の滋賀県)守護・六角義賢に仕えていた蒲生賢秀の三男として生まれる。
1568年、観音寺城の戦いで六角家が織田家に滅ぼされた後、父・賢秀は織田信長に臣従した際、氏郷12歳のときに人質として差し出された。

初めて氏郷が信長に謁見したとき「君、鋭い眼光だね、胆力もあるし、………イイ!」と気に入られ、自身の二女・冬姫を娶られる約束をしたと言い伝えられている。

その後、岐阜へ赴き、儒教や仏教、禅などを学び、明智光秀重臣・斎藤利三(春日局の父)の奨めで武芸にも励むなど、まさに英才教育を施され、元服の際は烏帽子親に信長自らが勤めるという気に入られっぷり見せつけた。
ちなみに13歳の初陣の後、約束通り冬姫を娶るのだが、夫婦仲は良好で生涯側室を持たなかったという愛妻家でもある。

氏郷、戦いに明け暮れる

初陣後は、織田家筆頭家老の柴田勝家の与力となり、姉川の戦い、伊勢長島攻め、長篠の戦い、有岡城の戦い、伊賀の乱など主要の合戦に参加し武功を立てる。

1582年、本能寺の変では安土城にいた父と連絡を取り、城内にいる信長の家族を速やかに保護。
氏郷の居城である近江日野城へ篭り、明智光秀との対決姿勢を明確にした。

その後の清須会議では羽柴(後の豊臣)秀吉に従い、1583年、賤ケ岳の戦いにおいては秀吉の弟・羽柴秀長の配下として参加し、かつての上司・柴田勝家と戦う。
翌1584年、小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い戦功を挙げた。

伊勢松ヶ島へ転封

戦後に伊勢松ヶ島(現在の三重県)12万石に加増・転封となる。
この頃、高山右近の勧めで洗礼を受けキリシタンになったと言われている。
洗礼名は「レオン」かっこいいね。レオン。

伊勢松ヶ島では松坂城を築き、住民を城下町に移動させ産業の効率化を図ったり、旧領地の商人を連れてきたり、信長由来の楽市楽座を敷いたり、立派な商都として栄えさせたりした。

会津若松へ転封

その後、紀州征伐、九州討伐、小田原征伐に従軍し戦功を挙げる。
秀吉の天下統一事業に寄与した功績により、1590年、伊勢から陸奥国会津(現在の福島県)への加増・転封となった。
何かと加増を繰り返し最終的には91万石にまで及んだが、氏郷は「ふええ…京都からこんなに遠かったら、何も企てられないよぉ…」と男泣きしたという。

会津・黒川の地に移った後は、七層もの天守を持つ大きな城に改築し「鶴ヶ城」と名付けた。
現在の会津若松城は五層だが、ありゃ江戸時代に改築された姿が元になっているのだとか。

氏郷は伊勢松ヶ島同様、ここでも城下町の発展に力を注ぐ。
地名を黒川から「若松」に改め、キリスト教への改宗や商業政策を重視し再び商都として栄えさせたりして、江戸時代における会津藩の基礎を築いた。
会津若松の名前はここから来ているわけだね。

ちなみに現在の会津若松のお土産品「赤べこ」は、氏郷と、氏郷が連れてきた職人たちが造った郷土品らしいよ。

何故会津への転封になったのか

関東の徳川家康、東北の伊達政宗の抑えとして遣わされたというのが一般的な見方だが、氏郷の才能、人望、野心を警戒し、左遷させたという説もあり、また妻の冬姫が信長の娘であり、その影響力を恐れたという説もあるようだ。
あるいはそれら全てが理由だったのかも知れない。

伊達政宗との関係

政宗にとっては旧領である会津を取られた上に、その旧領にやってきた苦々しい奴。
氏郷にとっては何かと面倒を起こす面倒臭い奴。
政宗は暗殺者を送ってみたり、一揆の扇動をやてみたり、対して氏郷は一揆を鎮圧したり、それを上方へチクってみたり…
お互いに、切れ者で、戦いが上手く、我が強いので、度々対立したそうだ。

ライバルというよりは、クラスでイタズラをする男子と、それを注意する女子のような関係と言えば、おわかりいただけるだろうか。
僕としては、へうげものに出てくる政宗と氏郷が一番しっくりくるかな?

山科勝成という男

氏郷の家来には山科勝成という者がいた。こいつはタダ者ではなく実はイタリア人だ。
本名をジョバンニ・ロルテスという。

ローマ使者というと、政宗の家来・支倉常長や、大友宗麟の名代・伊藤マンショが有名だが、実は氏郷も山科勝成を使者としてローマへ送ったりしていたのだ。
氏郷がキリシタン大名であったことも理由の1つではあるだろうが、主に武器の買い付けなど軍事的な目的だったという。

茶人としての氏郷

氏郷は千利休の弟子であり「利休七哲」の筆頭に数えられ、利休七種茶碗の一つ・赤楽早船など貴重な茶道具を所持していた。
利休七哲は以下の者が上げられる。

  • 蒲生氏郷
  • 細川忠興
  • 古田織部
  • 芝山宗綱
  • 瀬田掃部
  • 高山右近
  • 牧村利貞

古田織部は、漫画「へうげもの」の主人公であり、茶道織部流の祖、また千利休の後に豊臣秀吉の茶道筆頭となった。
細川忠興は、細川幽斎の嫡子にして、子孫に元内閣総理大臣の細川護熙氏がいる。
高山右近は近年、大名という地位を捨て国外追放の罪を受けてまで、信仰を貫き通したとしてローマ法王庁より「福者」へ認定されるなどした。

部下の扱いが上手い氏郷

ある時パっとしない新参の家臣にいきなり一部隊を任せた結果、大将の首を2つ取るという大手柄を立てたという。
どんな人間も、責任を与えれば必ず役に立つと氏郷は考えていたようで、現代の心理学に通ずるところがあるよね。

他の家でダメな奴だと言われた武将も、氏郷のもとで働けばあら不思議!稀代の名将に!
ネットではこれを評して「再生工場長」と呼ばれることもあるそうだ。

蒲生氏郷家臣というと有名どころは以下だろうか。

  • 横山喜内(後の蒲生頼郷)
    元六角家家臣、関ヶ原の戦いで石田三成に組し織田有楽斎と戦った。
  • 名古屋山三郎
    槍の達人、妻は歌舞伎の祖、出雲阿国。
  • 真田信尹
    旧武田家臣、後に徳川家臣、真田昌幸の弟で幸村の叔父。
  • 成田長親
    旧北条家臣、のぼうの城の主人公。
  • 成田氏長
    旧北条家臣、成田家当主、甲斐姫の父。

氏郷の最後

1593年頃から体調を崩し始め、秀吉もからも医師を招いて氏郷を診せるなど心配されたが養生の甲斐なく、その2年後1595年2月7日に伏見の蒲生屋敷にて死去した。享年40。
一説には伊達政宗や直江兼続による毒殺説ともあるが、その症状から肝臓癌や直腸癌などではないかと推察されている。

歴史にIFはないのだが、もし「氏郷がもっと長生きをしていたら…」あるいは徳川家康や伊達政宗の動向も変わっていたかもしれない。

 

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