どうも僕です。
皆さん兵農分離という政策を知っていますか?
戦国時代~江戸時代に掛けて行われた、兵士と農民を分離する政策のことです。
はい、そのまんまですね。
教科書では、織田信長が行った兵農分離、豊臣秀吉が行った刀狩りが有名でしょうか。
兵農分離を目指した理由その1
常備兵を増やすため
戦国時代は農民が武器を手に取り、合戦で戦うことが常識でした。
しかし本職は農業、そして戦国時代の財政の中心はお米。
お米を収穫できないと国が立ち行かなくなるので、農繁期に差し掛かると戦争をとっととやめて国に帰るのが当たり前だったのです。
兵士と農民を分離し専属兵士を増やすことで、例え農繁期であろうと戦争を仕掛けられるようになりました。
また戦闘のプロを育てることで戦争を有利にすることができたのです。
今でいうと職業軍人のようなものでしょうか。
兵農分離を目指した理由その2
一揆を減らすため
戦国時代の代表的な一揆といえば、一向宗と農民による一向一揆です。
織田信長、徳川家康、上杉謙信、朝倉義景など、全国の大名たちはこの一向一揆に何度も煮え湯を呑まされました。
「農民たちに武器を持たせると危険じゃね?」と考えるようになり、農民から武器を没収するようになったのです。
兵農分離を目指した理由その3
身分の確立
実は戦国時代では、武士と農民に明確な差がなかったとされています。
そのため農民の出でありながら戦働きで手柄を立て武士になった者も多く存在しました。
豊臣秀吉、高坂昌信、藤堂高虎などが代表的な例であり、政策では長宗我部元親が推した一領具足でしょうか。
一領具足とは、号令が掛かればいつでも戦争へ駆けつけられるように傍らに鎧兜を置いて農作業を行ったとされる制度。
1585年に豊臣秀吉が刀狩令を立てました。
刀狩令とは簡単に言えば農民から刀や槍などの武器を没収することによって農民の反乱を未然に防ぐというものです。
この政策は結果的に武士と農民の違いを明確にしたのでした。
1588年に豊臣秀吉は海賊禁止令を立てました。
戦国時代の日本には瀬戸内海を中心として海賊たちがばっこしており、海を通過する商船などから通行料を取ったり、大名や商船などを護衛する代わりに海賊行為を認めてもらったりしていたのです。
しかしこの政策により海賊は解体され、あるものは大名になったり、あるものは家臣になったり、またあるものは帰農することを迫られたのです。
1592年に豊臣秀吉は人掃令(ひとばらいれい)を立てました。
農民が勝手に武士に、武士が勝手に農民になることを禁止するという政策で、それぞれの身分を完全に固定化したのです。
こうして農民と武士を分離させるという一連の流れは達成され、明治時代に入るまで身分制度が確立されることになりました。
兵農分離がもたらしたメリット
城下町の発展
兵農分離によって武士と農民が分かれることになると、それぞれの居住区域も分かれることになります。
武士達は主のピンチにすぐに駆けつけられるよう城下町に移住することにより、人口は一気に増加して街は活気づき、楽市楽座や一国一城令の政策も伴い城下町の発展の要因となりました。
楽市楽座とは、寺院や朝廷などに保護された特権的な組合の座や、市での独占販売を禁止し、課税免除などを行い誰でも商いが容易に出来るようにした政策。
一国一城とは、当時城はある種の兵器であったことから、主に西国諸大名の軍事力を削減する目的で領内の居城以外のすべての城の破却するという政策。
生産の効率化
武士と農民を分けたことによって、それぞれの役割に集中できるようになります。
武士は職業軍人として精強な軍隊を作ることに成功し、農民たちも生産の拡大を進められるようになりました。
さて、余談ですが。
前述した通り一般的には兵農分離は織田信長で、刀狩令は豊臣秀吉が立てた政策と知られています。
しかし兵農分離は織田信長に限らず、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、佐竹義重など、様々な大名たちが実施しており、信長オリジナルというわけではありません。
また、刀狩令も豊臣秀吉が実施する以前に柴田勝家が実施しており、秀吉オリジナルというわけではなかったりします。
群雄割拠したこの時代はどの大名も物事の分業化や効率化が強く求められたということでしょう。
大名を企業に置き換えると、ある意味現代に通ずるところがありますよね。