崇徳天皇について

うも僕です。

皆さんは日本三大怨霊というのをご存知だろうか。
崇徳天皇、菅原道真、平将門という非業の死を遂げ怨霊となって祟りを起こしたとされる歴史上の3人を日本三大怨霊と呼んでいる。

天神様や天満宮または陰陽師などで有名な菅原道真、首塚や神田明神などで有名な平将門は、比較的耳にする機会もあるのだが、意外と知られていないもう1人、崇徳天皇。

今回はこの崇徳天皇について少し掘り下げて行こうと思う。

 

天皇に即位

諱は顕仁(あきひと)。
時は平安時代末期、1119年に鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の間に第一皇子として誕生する。
しかし祖父・白河法皇の子ではないかとの疑いがあり、父とは軋轢が生じていたが、1123年に鳥羽天皇の譲位によって天子の位を受け継ぐことになり、満3歳という幼さで、第75代天皇として即位した。

雲行きが怪しくなる

ところが鳥羽上皇が藤原得子(ふじわらのなりこ)を寵愛するようになると、その子供である躰仁親王(後の近衛天皇)を即位させるため譲位を迫られ、1141年に腹違いの弟・近衛天皇に譲位した彼は、上皇となり崇徳院と呼ばれるようになる。

しかし病弱だった近衛天皇は17歳で崩御してしまう。
後継候補として最有力なのは崇徳上皇の子・重仁親王だったが、藤原得子の養子・守仁親王(後の二条天皇)が後継となり、二条天皇が成人するまではその父・後白河天皇が即位することになった。

讃岐(現在の香川)に追われる

1156年、朝廷が後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂したことにより「保元(ほうげん)の乱」が勃発する。
鳥羽田中殿を脱出し白河北殿へ移って戦の準備を進めたが、後白河天皇から幾多の邪魔が入り、思うように徴兵することが出来ずにいた。
時間を与えまいと後白河天皇は平清盛らに白河北殿を夜襲させ敗北

その後、崇徳上皇は剃髪して投降を決意し、弟・覚性法親王にとりなしを依頼したが断られ、讃岐国に配流されることになる。
崇徳上皇は京に戻ることなく崩御した。
一説には刺客によって暗殺されたともいわれている。

降りかかる災厄

1177年、崇徳上皇崩御後に「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」といった出来事が立て続けに起こった。
しかしこの前兆は前年から既に表れており、白河院や後白河院に近い人物が続々と命を落としていく中、
精神的に追い詰められた後白河上皇は、怨霊の鎮魂をしようと「保元の宣命」を破却
1184年には「保元の乱」の戦場だった春日河原に「崇徳院廟(崇徳上皇のお墓)」も設置した。

近年でも、明治天皇が崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させ「白峯神宮」を創建したり、昭和天皇が崇徳天皇陵で式年祭を執り行ったりしている。

延暦寺の強訴
寺社の僧や僧兵、神職に就く者が、仏罰・神罰、武力などを振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうするもの。
要求が通らない時は、神木・神輿などを御所の門前に放置し、政治機能を実質上の停止に追い込むなどの手段に出たとされる。
簡単にいうと宗教家が行った武力を伴うデモ活動。

安元の大火
1177年4月、樋口富小路付近で発生した火は南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、京の三分の一が灰燼に帰した大火事。

鹿ケ谷の陰謀
延暦寺の強訴から続く、延暦寺と後白河上皇による対立で漁夫の利を得た平清盛の計略。
この後、後白河上皇の力が削がれ、平清盛派一強になり武家政権へ突き進んでいくことになる。
しっかり書くと長くなるので、またの機会に…

怨霊となった所説

様々な所説があるのだが、有力なものとして下記。

徹底的な排除
崇徳上皇には院政のチャンスが与えられず、鳥羽上皇や後白河天皇らの計略でその望みは次々に絶たれた。

周囲には「近衛天皇が崩御したのは、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛のせいだ」と信じられ、目の敵にされていたのだから、崇徳上皇は相当苦々しい思いをしたのではないだろうか。

写本を突き返される
配流後に写本作りをしていた崇徳上皇は、京の寺に納めてほしいと完成品を朝廷に差し出したが、後白河院は「呪詛が込められているかもしれない」と疑い送り返した。
激おこした崇徳上皇は舌をかみ切り、写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん、この経を魔道に回向す」と血で書いたと言われている。

その姿はさながら夜叉のようで、爪や髪は伸び放題。
生きたまま天狗になったとも噂され、崩御後は蓋を閉めた棺から血が溢れ出したそうだ。

崩御を無視される
「保元の乱」終結後の崇徳上皇は罪人として扱われ、崩御後もその認識に変化はなかった
国司によって葬儀が行われたが、朝廷は何もせず、徹底的にその存在を無視したのだとか。

生前からひどい待遇を強いられてきた崇徳上皇ですが、死してなおこのような対応をされたことで、怨霊になったと言われている。

僕の小並感

崇徳上皇は歌人としての顔も持っているのだから、そっち方面で生きれば良かったのにと思うものの、生き方に様々な選択肢があり、比較的無宗教である現代人の我々と比較しようもない。
怨霊となった所説を見ていると、いくら疎外したい相手でも徹底的にやり過ぎると恨みを買い、手痛いしっぺ返しが来るのはいつの時代も同じなのだなぁと思った(小並感

ただ、僕が思うにこの後、平清盛が台頭し、以降の政権は平氏や源氏のような武士に取って代わり、徳川慶喜が大政奉還を成して明治を迎えるまでの約650年もの間、朝廷が有名無実化したことは、もしかして崇徳上皇の怨霊と言えるのかも知れないなどと考えてしまう。

 

崇徳上皇の怨霊としてのイメージは江戸時代には既に定着していたようで、雨月物語、椿説弓張月、南総里見八犬伝などの読本に登場する。
怨霊に関する書籍もたくさんあるので、気になる方は漁ってみては如何だろう。

個人的に南総里見八犬伝などは読みやすいかも。

  

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